2008年1月14日月曜日

ちょっとうそぶき

こんばんはー。mai:pluieです。

今日はベートーベンのピアノソナタを聴きに行ってきました。
ベートーベンのピアノソナタといえば有名どころが「月光」「悲愴」「熱情」でしょうかね、うちにも数十年前のLPがあったりするのですが、
今回は、清水和音さんという(男性の)ピアニストによる演奏でした。
ん~よかったです♪
ベートーベンの曲自体、ショパンとかモーツァルトに比べると、迫力と優雅さのバランスが一番取れているように感じられるのですが(詳しくはないけどさ)、清水さんの演奏はその迫力に加えて針のような緊張感と撫でるような優しさが印象的でした。
んでそれだけならともかくMC曲説明一切なし!どこのギターロックバンドだと。
しかしその中で、20分間の休憩こそあったけどそれ以外は2時間ぶっ通しの演奏でした。聴いてる方も疲れましたが聴きがいがありました。

大体お子様連れがあちこちにいらっしゃったのに退屈してそうな気配が全然感じられなかったってどういうことよと(-_-;;;;;
最近のお子様はマナーがよく叩き込まれているのか・・・まあそれもあるでしょうけど、それだけ今回のコンサートが退屈できない内容だったのだと思います。

#少し前に同じようなピアノコンサートに行ったんですが、そのときはいましたよ。明らかに退屈してた男の子が。迷惑を通り越して見てて不憫でした。

さて、いただいたコメントの中で、1月10日のエントリ「ちょっとうそぶき」の続きを書きたいと言っておきながら、放っていてすみません。
で、どう続くのかと言いますと、先のエントリを勢いで書いてしまった後に読み返して、
「やっぱり『何も産み出さない』は暴言過ぎたかな」
と思いまして。

YouTubeとかニコニコ動画とかを見ると、古いゲーム新しいゲームを問わず、いわゆる「スーパープレイ」、いわゆらざるところ非常に上手なプレイングの動画を見つけることができます。
また、あまりいいことではないんでしょうが、古いアクションゲームのマップを超高難易度なレイアウトに作り替えて、それをクリアする、という趣向の物もあります。

練習に練習を重ねてこれらのゲームプレイを見せる人と、やはり練習に練習を重ねて楽器演奏や歌を披露する人と何の違いがあるんだろうと。

またそれを言い出すと、写真を撮って発表する人も同じだし、絵だってそうですね。

ゲームプレイは形に残らないから非生産的?そうでしたら動画にすることは不可能そうです。

ゲームプレイはお金にならないから非生産的?楽器演奏や歌や写真などにしたってお金になるとは限らないですよね。
また、今こそあまり聞かないですが、数年前はゲームのスーパープレイがそれだけでビデオとして売られたり、アーケードの移植版ゲームの付録になったりしたことがありました。

ゲームプレイは自己満足にしかならないから非生産的?
何をもって自己満足とそうでないかを分けるか、というのもあるんですが、ゲームプレイでなくても自己満足で完結してしまう物ってないでしょうか?それこそうちが撮った写真をあげて並べて悦に浸るうちのブログなんざ(滝汗

みい子さんがコメントに書いてくださいましたが、「いい方向に発展する可能性」は必ずあるとおもいます。
それがお金になる話ということは必ずしもなくても、たとえばゲームのプレイを極めたことがきっかけで自分に自信が持てるようになる、あるいはそれで友達や交流ができた、というだけでも、意義のある物は残せるのではないでしょうか。

実は「ゲームは何も産み出す物がない」というのは、「自分はゲームにおいて何も産み出せなかった」という言い方の方が正しいのではないでしょうか。

そして大変悔しいのですが僕もそうですorz
だから先のエントリのリンク先のネタに食いついてしまったわけで。

「ゲームはあくまで息抜きだからがんばる対象にはならない」という先入観に縛られていたのかなあ・・・
僕がカメラを持っているのだって息抜き以外の何ものでもないのに。

「何も産み出せない」と嘆く前に、自分で「やった!!」と言えるぐらいがんばるしか解決策はないような気がしました。

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