2010年4月13日火曜日

大阪春の陣−石田三成公生誕 450年祭−(2)

さて、ここから真田幸村公の足跡を偲ぶお散歩ツアーが始まるのですが、
当日頒布のフライヤーに印刷された地図を見ながらだとわかりやすいでしょうか?



・・・そんなに変わらないでしょうか?(汗

そもそも、石田三成、島左近、大谷吉継のにゃんこ着ぐるみキャラを擁する「戦国丸」さんが、なぜ彼らではなく「真田幸村」の企画を立てたのか?


なんででしょうね(をぃ)


上記マップの他に、石田氏と真田氏について解説されたリーフレットを頂いたのですが、それを読んでもいまいち彼らのつながりがわからない(汗

Wikipediaを見ると、天正10年(1585年)頃に徳川氏と不和になった事がそれ以降徳川家康と戦うことになる発端らしいこと、豊臣氏の武将として関ヶ原で西軍についたこと、大坂夏の陣で徳川家康をあと一歩まで追い詰めたというのはわかったけど・・・
いかんせんみつにゃんじゃない石田氏との関わりがよくわからない。

まあ未だに司馬遼太郎「関ヶ原」を読み進められていない自分が悪いのだが(-_-);

しょうがないので先に進みます^^;

マップ右上にある「大阪城」の敷地の下の赤字「豊国神社」から出発します。

NHK大阪放送局/大阪歴史博物館の方向に城を出る「大手門」



城を出てすぐの外苑は花見客でいっぱい。
もうこれが最後の週末でしょうね。

「豊国神社」の下にある信号をさらに南、玉造方面に南下していきます。

なんか大阪の象徴らしい物があったのでぱちり。

中央区マスコットらしいのでぱちり。


細川忠興屋敷跡「越中井」
ガラシャ夫人がみつにゃんじゃない石田三成軍に包囲されたときに、家老に槍で刺させて自害、その後家老により火を放たれたとのこと。


さらに南に下ると「聖マリア大聖堂(玉造教会)」
昭和38年の竣工のようです。

建物中央の像がガラシャ夫人、左の像は忠興氏ではなく高山右近氏。

うーむ。知らない人物が次々と出てきます。
その都度Wikipediaで確認しております。
楽しいけどちょとしんどいかも^^;

大聖堂の交差点を東に折れると、玉造稲荷神社。

1603年に豊臣秀頼が社殿を建立しました。
そのときの鳥居



恋ツブリ、?違うだろそれは、恋きつねというちょっと変わった絵馬です。
縁結びの神社でもあるのでしょうか。

狛犬さんにみおくられ出発。


次の目的地は三光神社。
花札とは関係ないと思います多分。
このカットの直前に花吹雪が吹いたのですが取り損ねました(汗



ここは桜が量、質ともにとても充実していました。
ズームから105mmマクロに切り替えて接近。








で、ここには真田幸村公が大阪城からここまで掘ったと言われる抜け穴があるのですが・・・
すみません。消火栓か消火水槽のための引っ込みだと勘違いして撮ってません(汗

で、そこの前にいたら「ジャマ」とお客さんに言われたみつにゃんです。

「これしきでうじうじするのは男ではありませぬな」
「す、すまぬ」

「ありがとー」
「わーいわーい」

幸村公彫像

これは予告エントリでも出しましたね。
後ろの物置が惜しい^^;


くづつ。

2 件のコメント:

ひまりん さんのコメント...

さすが!良い写真いっぱいで楽しめました(^0^)♪

真田昌幸公(幸村パパ)と三成様が義兄弟だったって話とか、同じ西軍で家康に翻弄されながらも豊臣の世を守ろうとした「義」の武将だからのピックアップではないでしょうか。(←と勝手に思ってますが詳しいいきさつは知りません)

徳川の世になって三成様と関わってたってことは皆証拠隠滅してしまって無かったことにしたのに、真田家では三成様との手紙のやりとりなど大切に保管してきたんだそうです。それだけでも嬉しくなっちゃいます♪

接写の写真、ほんとにキレイですね~(^^)なごみます。

mai:pluie さんのコメント...

こんにちは。

コメントが遅れて申し訳ありません。

そうでしたか。つながりがなかったなんてそんなことは無かったのですね。すみません。

>真田家では三成様との手紙のやりとりなど大切に保管してきたんだそうです。
ぐぐったら確かにそれっぽいエピソードが出てきました。

やっぱり「なんでなんだろう」と思ったら調べなあかん、ってことなんですね。